人に「劣化」と言うと反感を買うのは「容姿が衰えた人物に価値はない」と言っているも同然だからである
人に「劣化」という事がなぜ不愉快か。
まず物に対する言葉を人に向けるな、という事も勿論大きな理由である。
そもそも「劣化」という言葉はどういう意味だろうか。
デジタル大辞林では
[名](スル)性能・品質などが低下して以前より劣ってくること。「画質が
劣化 する」*1
と記載がある。
ネットで芸能人に対し「劣化」という言葉が使われる場合は、大抵
「芸能人の○○(人名)が劣化した」
という使い方である。
この文章を言葉通りに捉えると、
「芸能人の○○という人物は以前より劣った存在になった」
という意味になる。なかなかすごい言葉である。
以前より劣った存在になるとは、それは例えば私利私欲のために悪事を行い他の人を追い込んだ、卑劣な事をする人物になった、その人の価値を棄損するような事を犯した...という意味ではもちろん使っていない。
ただ「その人物の容姿が悪くなった」という意味で使っているのである。
芸能人であれど、容姿というものはあくまでその人物の魅力・長所の一つであって
本当に容姿だけで食っている芸能人も実際あまりいないだろう。
アイドルやモデルでさえ、容姿・ダンス・ポージングや服を着こなす力やセンスだけでなくキャラクターやトーク力が求められる時代である。
美形でありさえすれば人気芸能人になれるという時代ではない(そんな時代はなかった気もするが)*2
しかし人に対する「劣化」という言葉は、ある人物の容姿が悪くなった場合に(容姿の良し悪しは主観による所が大きいが)「その人物は劣化した」という使い方をしている。
つまり、「劣化」という言葉の意味と昨今の使われ方を考えると、人に対し「劣化」と言うのは「容姿だけがその人物の価値である」「容姿が衰えた人物には価値がない」という意味だから不愉快なのだ。
「才能が枯渇した」「老けた」という言葉も不愉快で失礼だろうという指摘があるが、
「才能が枯渇した」という指摘は(その指摘が正当か、誰が判断できる物なのかは置いておいて)その人物の持つ様々な長所の一つである才能が枯渇したといっているだけであって、その人物の価値が無くなったとまでいっているわけではない。例えばあるシンガーソングライターに対し「作曲の才能が枯渇した」と言った後に、「しかし歌声に深みが出た」という言い方をすることは有り得る。
「老けた」という言葉も、まあ失礼な言葉ではあるがあくまで容姿が以前と比べると年を取った容貌になったと言っているのであり、「さすがに老けたが貫禄が出た」「老けたが演技に深みが出て親の役が似合うようになった」という言い方も有り得る。
そのように考えると、まだ「芸能人の○○の容姿が劣化した」という言い方であれば、
「劣化した」対象を「人」ではなく「人の容姿」に限定しているから(それにしても無礼な表現ではあるが)、「才能が枯渇した」「老けた」という言葉と同じようなものと言えるかもしれない(しかしその場合でも「人の容姿が劣ったとなぜお前が決めつけるのか」という事になり失礼であることには変わりはないが)。
しかし、今の「劣化」という言葉の使い方だと「芸能人の○○が劣化した」という言葉の後に「でも演技は上手くなった」等の、良い意味の言葉が続くということは、言葉の意味を考えるとあまり自然ではない。
演技や歌が上手くなったと付け加えても、そもそも最初に「その人物は以前より劣った存在になった」と言ってしまっているわけで、例えば「劣化したが演技が上手くなった」と言う文章があったとしても、「演技が上手かろうがなんだろうがそもそもその人物が劣った存在になってしまったことには変わりは無い」と言っているように見えるし、もっと言えば「容姿が悪くなれば他に美点があっても無駄」と言っているように見える。
少なくとも昨今の「劣化」という言葉の使い方は、「容姿が衰えた人物に価値はない」と捉えられる使い方であるから、無礼な言葉だとみなされるし反感を買うのだろう*3。